今の時代ならあり得ない!?”昭和の芸能人の事件”が恐ろしい…!

顧・からし・賞味期限 2023/04/20 告発 コメント

今の時代ならあり得ない!?”昭和の芸能人の事件”が恐ろしい…!

ビートたけし

生年月日: 1947年1月18日

生まれ: 島根

ビートたけしさんが、仲間らとともに、写真週刊誌 『フライデー』 (講談社)の編集部を襲撃した事件です。

『フライデー事件』、『ビートたけし事件』、『たけし襲撃事件』などとも呼ばれています。翌年6月10日に懲役6か月、執行猶予2年の判決が下されました(東京地裁、確定)。

当時のレギュラー番組への出演については、執行猶予判決が確定するまでの約8か月間謹慎することとなりました。なお、当時たけしさんと交際していたといわれた女子大生に暴行で告訴された記者は、罰金10万円の判決を受けています。

佐々木つとむ

人生波待ち日記

生年月日: 1947年7月23日

生まれ: 日本 兵庫県 神戸市

1987(昭和62)年9月4日23:10、東京・板橋区高島平8丁目のSコーポ1階2号室の元下着類販売の女性、中野美沙(39)方6畳間で、ものまねで有名なタレント・佐々木つとむこと佐々木宏幸(40)が全身を滅多刺しにされて殺されているのを、佐々木が所属する倉石プロ社長(40)が発見しました。

佐々木は下着姿でカーペットの上に頭を北に仰向けに倒れており、座布団やバスタオル、シーツをかぶせられていました。死後5、6日で失血死でした。凶器の包丁は台所の流しの上に置かれており、隣の4畳間のテーブルの上には「おとうさん、わたしもおとうさんのそばに行きます、でもわたしがおとうさんをころすなんてゆめにもおもわなかった、あのよでふたりでやりなおそうね」と遺書が残されていました。

中野は9月2日、犬を病院へ預けるのを更新する措置をして以来、消息が不明となっていました。 佐々木は4月に妻子と別居、年初めから交際していた中野と同居生活を始めましたが、賭け麻雀で数千万円の借金を抱え、中野との間に別れ話が出ており、佐々木は倉石社長にも相談していました。

8月30日午後に鈴本演芸場に出演、9月5日の高松公演を前にプロダクションでは佐々木と連絡がとれなくなり、倉石社長が出向いて佐々木が殺されていたのが判明しました。

佐々木は8月30日夜から8月31日未明にかけて殺されたと見られています。佐々木は昭和50年代前半にものまねタレントとして活躍、声帯模写だけでなく、キャラクター模写ともいうべき芸風が新しく、フジテレビ「日曜テレビ寄席」の「円鏡のものまね劇場」コーナーで渥美清、菅原文太、月の家円鏡、立川談志、田中角栄などのものまねで人気を得ていたが、その後はテレビからは遠ざかっていました。

9月6日9:30、青森・むつ市川守町の水深40センチの海中より、水死体となった中野が発見され、自殺とされています。

近藤真彦

生年月日: 1964年7月19日

生まれ: 日本 神奈川県 横浜市

1987年、日本レコード大賞授賞式直前に、前年死去した近藤真彦の母親の遺骨が何者かによって盗まれ、「レコード大賞を辞退しろ」などと書かれた脅迫状が近藤の所属レコード会社や所属事務所に送り付けられるという事件が起りました。

当時の報道では、マッチはレコード大賞辞退の脅迫について、大賞を受賞するまでは知らなかった事になっていたが、実は、レコード大賞に出るか辞退するかはマッチの判断に委ねられていたようです。

近藤は父・正勝さんに「自分がタレント活動をしているから、こんなことが起きてしまった」と土下座して謝罪し、犯人のいうとおりにしようとしました。正勝さんは近藤を抱きしめた後、「お母さんはきっと(授賞式には)出なさいと言うと思う」と話したといいます。

近藤にとって、家族の絆を強く感じた瞬間だったようです。

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1987年の『第29回日本レコード大賞』において「愚か者」で大賞を受賞しました。「個人的なことで申し訳ないんですけれど、去年おふくろを亡くしまして、今年は暗くなっちゃいけないと、明るいところで一生懸命頑張ってきました。今日もこの武道館のどこかで、僕と一緒におふくろも泣いてるんじゃないかと思います。本当にありがとうございました」と近藤はスピーチしました。

事件は既に時効を迎えており、2018年現在遺骨は未だに見つかっていません。

トニー谷

死亡: 1987年7月16日

子供: 大谷 正美、 谷かつみ

1955年7月15日、人気芸人トニー谷の長男が下校途中に誘拐されました。その時同級生から、連れ去ったのは黒い服の中年の男という証言が得られていました。

7月16日午後、誘拐犯から身代金200万円を要求する脅迫状が速達で届くと、事件発生とともにマスコミは大スターの子息が身代金目的で誘拐されたとして大々的に報じました当時は報道協定がありませんでした。

トニーは記者会見で芸人としてのギミックを一切かなぐり捨て、悲しみに暮れる一人の中年の父親の姿を報道陣の前に見せ、息子を返還するようカメラの前で号泣しながら犯人に呼びかけました。

しかし、当時は芸人仲間の多くがトニーを信じず「これは事件などでなく、話題作りのためにトニー自身が引き起こした狂言誘拐だ」として冷ややかな目で見ていました。(実際は狂言誘拐などではなく、本当に起こった誘拐事件です)トニーの自宅には連日マスコミや、やじうまなどが集まり、イタズラ電話も頻繁にかけられる中、7月21日午後8時半頃に誘拐犯から身代金の準備に関する確認の電話が入り、トニーはこの電話を本物の犯人からだと直感。犯人が身代金の受け渡し場所を指定すると、トニーは自分が身代金の受け渡し現場まで行くと話し、トレードマークだったひげまで落として変装したが、報道陣の過熱ぶりから家を出られなくなってしまっていました。このため、代理人を立てることを犯人に提案し、交渉しました。

結局、捜査員がトニーに扮して現金を持ち受け渡し場所に向かいました。

夜10時頃、身代金受け渡し場所に「トニー谷か」と声をかけてくる男が来ました。捜査員は別の場所に移動した上で人質を預かっている証拠を提示するよう求めると、男はランドセル、教科書などを提示。真犯人と見た捜査員はさらに別の場所に連れ歩いて共犯がいないことを確認してから逮捕しました。

長男は長野県の犯人の家に(犯人の)子供と一緒にいることが確認され、無事救出されました。東京喜劇人協会の会長だった榎本健一はトニーの自宅に行ってトニーを激励し、トニーの家族とともに解放を喜びました。

犯人は長野県の雑誌編集者で、地元で雑誌の発行を計画していたが、資金がなかったためにリンドバーグ事件にヒントを得て身代金誘拐を企てていました。犯行の動機について「トニー谷の、人を小バカにした芸風に腹が立った」と語り、事前にとある雑誌でトニーの長男の写真を見ていたため、顔を知っていたことで事件を実行に移していたのです。

世論は、トニー本人の悪役キャラクターに由来する反感が事件の原因となったという論調が支配的となりました

。トニーは被害者であったが、マスコミによって出自・前歴など秘密にしていた部分の多くを徹底して暴かれ、メディア不信に陥いりました。さらには「誘拐の真因はトニーが世間から嫌われることをやっていたからだ」という論調でジャーナリストの大宅壮一や花森安治などからも非難され、この事件を境にトニーの人気は凋落しました。

犯人は営利目的での誘拐だったため、人質の長男を丁重に扱ったようです。後日トニーは息子を丁重に扱ってくれたお礼として、犯人の家族に対し現金や衣類などを送りました。被害者であるはずなのに、マスコミにより散々に弄ばれたトニーであったが、この話はトニーの生前には一切明かされることはありませんでした。

美空ひばり

生年月日: 1937年5月29日

生まれ: 日本 神奈川県 横浜市 磯子区

1957年1月13日、東京・浅草の国際劇場で、「花吹雪おしどり絵巻」に出演していた美空ひばり(当時19歳)が、客席にいたファンの少女A子(当時19歳)から塩酸をかけられるという事件が発生しました。

少女は「塩酸をかけて、みにくくなった顔をみたい」と手帳に書いていました。

1957年1月13日午後9時半頃、国際劇場で「花吹雪おしどり絵巻」に出演していた美空ひばり(本名加藤和枝 当時19歳)は八景「春はジャズに乗って」を終え、ドレスの上にハンテンを着て舞台上手のカーテンのかげで十景のフィナーレの出番を待っていました。この公演もこの夜が千秋楽で、超満員の入り。この後ひばりは夜行に乗って大坂に向かい、15日から梅田の北野劇場で実演に出演する予定でした。

客席には茶色の上着を着たA子(当時19歳)がいました。ひばりが歌い出そうと足を踏み出した時、A子は突然花道にはい上がり、「ひばりちゃん!」とひばりに近づいて、上着のポケットに入れていたビンを手に取り、「エイッ!・・・エエイッ!」 と中に入った塩酸を浴びせかけたのです。ひばりは顔や胸などに火傷を負い、近くにいた俳優ら3人も塩酸を浴びました。

「その女を捕まえてくれ!」誰かがそう叫び、ひばりは顔をおさえてよろめいていました。A子は舞台裏の方へ逃げて行こうとしたが、幕の外で舞台を見ていたブロマイド出版業者の男性に捕まり、劇場職員に引き渡されました。この時、A子はたいした抵抗もしなかったようです。

ひばりは付き添いの母親らに抱えられ、近くの浅草寺病院で手当を受けました。

顔左半分、首、胸の両乳の間、背中の左半分に火傷を負い、全治三週間。当時着ていたハンテンは襟の部分がほとんど焦げ、ドレスも胸が焼けていました。

火傷を負った他の3人は、付き添いの佐藤一夫さん(当時31歳)が右目下に全治一週間、俳優の世話人西村真一さん(当時20歳)は顔面に全治二週間で失明の恐れもある火傷、日活俳優南博之さん(当時39歳)は顔面に軽傷を負っていました。

プロレスラー清美川

生年月日: 1917年1月5日

生まれ: 日本 秋田県 横手市 十文字町東京・中野区のプロレスラー・清美川梅之の長男で中学1年の和利君(12)が夜、銭湯「若松湯」に出かけたまま行方不明になった事件です。

銭湯で和利君が見知らぬ男に背中を流してもらっているのを同級生が目撃しており、誘拐事件として捜査。10日に日本棋院七段某の長男A(26)を誘拐殺人・死体損壊・同遺棄で逮捕。

Aは和利君をイタズラしようと自宅に連れ込んだが、嫌がったので殺害、そしてノコギリ等で二晩がかりでバラバラにしたのです。

バラバラにした死体を隠すために、金魚鉢や大型の菓子入れなど4個に分けてホルマリン漬けにし密閉、床下に隠していました。

「若松湯」とタイトルのつけられたAの日記には、和利君を見た1日目から5日目までの記録が小説ふうに書かれていました。

「ついに捜し求めていた理想の少年を見つけた」 「金魚鉢に入ったあの子は、見ても見ても飽きるということがない。ホルマリン漬けになったあの子は生きているときより、いっそうかわいい」などと書いていたようです。

Aは犯行以前から、銭湯やそろばん塾の帰りの少年を言葉巧みに誘い、わいせつな行為を行ったり、暴力を振るっていたりしていました。

また、飼いネコを殺してバラバラにして食すこともあったといいます。誘拐事件の数日前にAは和利君に声をかけていました。

和利君は同級生に「さっき、僕の背中を流してくれたあの人(A)に、僕は殺されるかもしれない」と話していたことが判明しています。

吉永小百合

生年月日: 1945年3月13日 

生まれ: 日本 東京都 渋谷区

古くは1963年。女優の吉永小百合の自宅にナイフとピストルを持った男が押し入りました。

両親が警察に通報すると、駆けつけた警察官のひとりが銃撃され、機動隊が出動する騒ぎとなりました。

犯人は動機について「俺は小百合ちゃんの大ファン。結婚したかったが無理だとわかり、自分の名前を(吉永の体に)入れ墨にして記念にしようと思った」と話していたといいます。

和田アキ子

生年月日: 1950年4月10日

生まれ: 日本 大阪府 大阪市 生野区

午後3時30分、中野サンプラザでテレビ公開番組「マチャアキのガンバレ9時まで!!」に出演の和田アキ子(24)が化粧を直しに2階の楽屋に戻ったところ、見知らぬ男が鞄をいじっていました。

和田は「あんたなに」と聞くと、男は「西城秀樹の関係者です」と言うので、「西城君は隣ですよ」と答えたようです。

ところが男が黒い手袋をしていたので、和田は「ちょっと待って、お前なんで黒い手袋してんだ」と問い詰めると、男は「寒いから」と逃げようとしたました。 和田は男の胸倉を掴み、太ももを蹴り、1階まで引きずり下ろして警備員に引き渡しました。

男は楽屋荒らしの常習、長谷川こと曹(29)でした。

和田は柔道初段、空手8段の持ち主でした。

明石家さんま

生年月日: 1955年7月1日

生まれ: 古座町

さんまの弟(当時19歳)は火事が原因で亡くなっています。当時弟は高校生。さんまは冠番組を持つほど人気がありました。

「ぼくのことを、昔から、すごく尊敬してくれるやつでね。ぼくがいうことは、すべて正しいと思っていたみたいですよ。自分にも、それから他人にも、素直に自分をさらけだせるやつでしたね。ぼくもサッカーやったけど、チビのほうがすごいんですよ。サッカー部のキャプテンで、インターハイにも出たし、国体選手にも選ばれたしねえ……。去年の10月、大阪のぼくのマンションに遊びにきたとき、今度のワールド・カップをふたりで一緒に見に行こう。キップはぼくが買っとくからって、約束しとったのに……。 まだ納得できません、あのチビが死んだなんて……」

いまだに不明な弟の死因について、当時の明石家さんまは、「あいつ(弟)は自殺するような人間やない・・・もし(弟が)自殺するほど苦しんでいたら、ぼくにひとこと相談したはずや・・・」と泣きながら語ったのだそうです。

引用元:https://jp.anyelse.com/user/postart,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]

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